( )
(堀内俊郎) 189
はじめに
翻訳チベット語文献、すなわちもとは梵本で書かれたものがチベット()語訳された
という文献や、漢訳仏典にしては、きく分けて二つの度、向き合い方があろう。漢
訳仏典を例にとれば、一つ目は、原文である梵本をらない国人が読んだ場合いかに読
みうるか、あるいはいかに読まれてきたか、という観点から読むというものである。実際
国・日本仏教はインド原典の翻訳などに基づきつつも時には独自の読みにより独自の発
展を遂げてきたのであり、その解釈がインド原典からは乖離していたとしても、それは
重されるべき伝統である。翻訳チベット語文献についても同様のアプローチが可能であろ
う。方、二つ目としては、翻訳チベット語文献や漢訳を、インド原典へとたどるための
手として読むという度がある。その際、語は梵文に比べて文法も簡であるし語順
も日本語と似ているので一見取り組みやすいように思われる。しかし、翻訳チベット語文
献の場合、その背後にあるのは梵本であるので、それらをインド文献、インドの原者の
意図を明らかにするために読むという場合、結局は梵本を読むということになる。梵本が
在していた場合はその作業はいくらか容易になる。しかし、それが在しない場合、
訳の背後に梵本を透かし読みしなければならないということになる。こうして考えてみる
と、翻訳チベット語文献は取り組みやすいどころか、極めて難物であるということがいえ
よう
1
。
ここで、この二つの度はいずれが正しくいずれが誤りということではない。また、い
ずれの度で読んでもテクストの読解の結果が収斂するということもかろう。しかし、
時にはその結果はきく異なることもある。かくして、テクストの読解の際にはこの二つ
の度のいずれを採るのかということを明確に意識する必要があることになる。
さらに、文献は常に問を含んでいる可能性がある。すなわち、我々の手元にある現行
のテクストが伝承の過程で corrupt した(なわれた)ものであるという可能性である。
チベット経でいえば、テンギュルの表的な版本であるデルゲ版(D)と北京版(P)
にいかに異読がいかということは常に経験されることである。しかし、関連文献に照ら
せば、D と P のいずれにもない読みを採用すべきという例にもしばしば出くわす。そし
翻訳チベット語文献・漢訳仏典読解への方法論的反省
─『般若心経』注釈書と『要義釈論』を例として─
堀 内 俊 郎
308